こんにちは!
産婦人科医やっきーです。
先日、「医者になった理由、産婦人科医を選んだ理由」という記事を執筆しました。
この時に少しだけ受験についても触れましたが、医者や医学部という場所は受験を抜きにしては語れません。
そこで今回は「受験」にテーマを絞ってお話ししようと思います。
一言で言うならば、「医学部に入るまでの受験戦争をどう乗り切ったのか?」という内容です。
ただし、この記事に「こうすれば医者になれる」「こんな勉強法がお勧め」などの有益な情報は全くありません。
変な医者が誕生するまでの特殊な経緯の記録だとお考え下さい。

医者をやっていると、「学生時代、すごく勉強してたんでしょ」「テストとか余裕だったんじゃない?」などとたまに言われることがあります。
他の先生はそうかもしれませんが、
私は違います。
私は違います。(2回言った)
私は試験勉強や受験勉強というものが嫌いで、
今までの全ての試験を必要最低限の勉強だけで乗り切ってきました。
実際に、小学校では隣の席のかわいい女の子に負けて挫折し、
中学生では学校のテストで学年最下位を争い、
高校生では留年しかけ、
大学受験でも浪人し、
医大でも再び留年しかけ、
医師国家試験も専門医試験も合格スレスレの成績でした。
そんな人生でしたので、自分のことをテスト勉強が得意な人間とは全く考えていません。

そんな勉強嫌いの私、やっきーが医学部に入るまでの受験史を振り返ります。
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小学生時代~中学受験
前回の記事でお話しした通り、私は幼少期から「医者になりたい」と両親に話していました。
すると両親は、「医者になるなら中学受験してみるか?」と勧めてきました。
受験というもの自体がよく分かっていなかった私は、
その過酷さも全く知らず「やってみる!」と即答。
これにより私は、小学五年生の春から塾通いを始めることになりました。
五年生、塾通いスタート

この塾は一学年が成績順でA~Cの3クラスに分かれており、入塾時の試験で私は2番目のBクラスに入りました。
緊張しながら塾通いを始めたやっきー少年に、忘れもしない衝撃的な出来事が起こりました。
そうです。
隣の席にかわいい女の子が座っていたのです。
しかも彼女は積極的に話しかけてくれるではありませんか。

やっきー君っていうの?よろしくー!やっきーって呼んでいい?

よ、よ、よろしく!!
これまでモテたわけでもなく、女の子とあまり縁のない人生を過ごしてきたやっきー少年にとって、女の子が話しかけてきてくれた経験はほぼ初めてでした。
しかもかわいい。うちの小学校ではちょっと見ない垢抜けた雰囲気の女の子でした。
やっきー少年のテンションは一気に上がりました。

これは春や!ワイの人生に春が訪れたんや!
そりゃあ関西人でもないのにプロゴルファー猿みたいな口調にもなります。
この塾にしてよかった。まだ授業はひとつも受けていませんがそう確信しました。
初めての授業
やっきー少年が初めての春を謳歌しているさなか、初めての授業が始まりました。
社会科の先生が、白黒で描かれた日本地図のプリントを配り始めました。
都道府県ごとに番号が振られていました。
はじめに、各都道府県の名前を書くというテストが始まったのです。
特に何の勉強もしておらず、東京や大阪の場所すら怪しい小5男子には難しい問題でした。
結果、自分の近隣県と北海道・沖縄くらいしか分からず、47点満点中7点というひどい成績でした。
しかしそこは認識不足ゆえ、

ふーん、塾ってこんな難しいことするのか。
くらいの感想でした。まあ、学校の勉強以外特に何もしていなけりゃそんなもんだろうと。
そして授業が終わり、隣の席の女の子と話します。

難しかったねえ。

そうだねー。やっきーは何点だった?

7点だったよ。

…ななてん…!?
聞いてみると、その女の子の点数は47点満点中42点でした。

…

…

そ、それじゃ私、次の授業の準備があるから…

う、うん…

あ…あの女の目…… 養豚場のブタでもみるかのように冷たい目だ…

「かわいそうだけど あしたの朝にはお肉屋さんの店先にならぶ運命なのね」ってかんじの!
これは、やっきー少年にとって始めての衝撃でした。
なんだかんだ、これまで学校のテストでは普通に点が取れていた方だったので、
勉強で明確に誰かに負けるという経験はこれまでに無かったのです。

え…皆こんなにできるの…?しかも2番目のクラスなのに…?

俺ってBクラスで一番ダメなんじゃないか…?
後で知ったのですが、彼女は四年生の頃からこの塾に通っていたらしく、都道府県の勉強もしていたようです。
やっきー少年は、このままでは駄目だ!もっと頑張らなきゃ!と一念発起…
とはなりませんでした。
五年生の春頃、同級生に誘われゲームセンターに行くことがあったのですが、この時私は1000円をメダルに換えてメダルゲームを遊びました。
この時、運が良かったこともありそう簡単には使いきれない量のメダルを獲得してしまい、これを元手に約一年間遊び続けていました。
要するに、小学五年生のやっきーを簡単に表すと「女の子に勉強で負けてゲーセン通いに没頭していた」という目も当てられない状況でした。

そんなゲーセン通いをしている間、塾はどうしていたか?というと、
私は算数はけっこう好きで、それなりに上位の成績を取れていたのです。
覚えることは最小限で、あとはパズルゲームのような感覚で問題が解けるのが楽しかったのです。
国語も好きでした。
この時すでに漫画を死ぬほど読んでいたおかげか漢字や難しい言葉、読解力などには自信があったので、聞かれた質問に答えるだけで点がとれる、という感覚でした。
しかし、自宅での自習は全くしていなかったため、
暗記教科、つまり「かけた時間がモノを言う」タイプの社会科や理科はてんでダメダメでした。
六年生に進級
そんな私が六年生に進級する少し前、塾の先生から話しかけられました。

ちょっとやっきー、話があるんだが。

はい、何でしょう?

お前はこの一年間、A~Cのクラスのうち、2番目のBクラスだった。

そうですね。

来年度から六年生に「Sクラス」を新しく作り、クラスをひとつ増やすんだ。

へえ、それは初耳です。

基本的にSクラスは今のAクラスの上位しか入れないんだが、お前は算数と国語だけはできる。

不真面目な上に理科と社会はカスみたいな成績だが、そこは勉強量で補えるかもしれない。

飛び級でSクラスに入ってみないか?

僕が!?
この塾は学期ごとにクラスの入れ替えがあったのですが、暗記科目を勉強していなさすぎてBクラスの席を温め続けていた私にとって、これは予想だにしない話でした。
女の子に負けて以来、私の勉強に関する自己肯定感は地に落ちていましたし、
軽くディスられたような気もしましたが、Sクラスという響きの良さに

入ります!!!
と即答しました。
ちなみに最初の授業で会った女の子とは、その後これといって仲良くなったわけでもありませんでしたので、Bクラスに対する未練はありませんでした。
こうして無事にSクラスに入ったことで、理科と社会の先生がみっちりと暗記をさせてくれた結果、理科と社会の成績は人並み程度に育ちました。
問題との相性が良かったこともあり、その冬に県下トップクラスの進学校である国立中学校(中高一貫)に合格し、無事に入学することになります。
そしてここから私は勉強嫌い人生を突き進むことになります。
中学校~高校生活
こうして私は、中高一貫校に入学しました。
医者になることを目標にしていた私は、今後の進路についてこのように考えます。

自分は六年生の一年間だけ勉強したら、この中学に入れた。

ってことは大学も高校三年生の一年間頑張れば入れるだろう。

ここは中高一貫だから高校受験が要らない…ということは…

よし、高校二年生までの五年間は勉強せず遊びまくろう!
一切勉強せず遊びまくることを決意します。
ここで言う「一切勉強せず」は本当に文字通り一切勉強しませんでした。
勉強を一切しなかった中1~高2
グレていたとか非行に走っていたということではなく、
出席はきちんとしているのですが、授業は全く聞いておらず、テスト勉強なども一切せず、
ひたすら自分のやりたいことや趣味に傾倒していたのです。
趣味が高じた結果、とあるマイナー競技で世界大会に出場し、決勝戦に進出したこともあります。
出席はしていたので中学校では学年最下位を争うだけで済んでいたのですが、
高校となるとそうもいかなくなってきました。
いかに自由な校風で売っている国立校と言えど、
中学と違い高校ではあまりにも勉強していないと「留年」があり得るのです。

高校一年生の時でした。
古典の授業があまりにも苦痛でテストで0点を頻発していたところ、
学年の評定で古典の単位がとれなかったため、本気で留年しそうになりました。
留年して同級生たちが先輩になるのは嫌だったので、さすがにここは危機感を覚えました。
古典の先生に頼み込んだところ、担任の先生達の温情もあり、追試を受けさせてもらうことができました。
その追試の内容は「一週間以内に百人一首を全部覚えてくること」でした。
百人一首を全く知らない人間でしたが、語呂合わせ等を駆使して百首全てを暗記し、何とか進級することができました。
ちなみに、詳細は省略していますがこの過程で両親や先生達に死ぬほど怒られ、頭を下げまくったため、この留年騒動に懲りた私はこう思いました。

今後は留年だけはしない程度に、テストの直前に軽く教科書を読むくらいはしておこう…
結果、留年をかろうじて回避できる最低限の成績(ほぼ最下位には変わりありません)だけをとれるよう勉強するというバランス感覚を会得しました。
ちなみにこの時に獲得した能力はその後、医大での進級試験や国家試験、専門医試験などで発揮されます。全部ギリギリもいいところでした。
高校三年生
そんな中、高校三年生を迎えます。

医者になりたいし、さすがにそろそろ勉強するか…
ここで6年ぶりにまともに勉強と向き合い始めました。
まずは実際の入試問題がどんな内容なのか、調べてみました。
この冬にどんな問題を解けるようになればいいのか、把握しないといけませんね。


ふんふん、なるほど…


…

なるほど、これは…

高3の一年間だけ頑張っても無理だな!
当時の私は、大学入試というものを全く分かっていませんでした。
小学校までの学習内容+アルファベットが書ける程度の知識しか無い人間が、
一年間頑張った程度で受かるほど医学部受験は生易しいものではありませんでした。
大学受験に必要な知識量と問題の難易度は、中学入試とは比べ物になりませんでした。
そこで、高3の一年間は中1~高3の学習内容をさらう程度にして、
浪人の一年間で勝負をかけることに決めました。
高3で受験した大学入試は予想通りきっちり落ちました。
予備校生活の始まりです。
予備校生活~大学受験
予備校に入り、受験勉強をし始めた私は一つの真実に気付きます。

この生活は…全然面白くないぞ…!
人間関係があまりにも少ないのです。
同じ高校出身で医学部を目指していた同級生は、殆どが現役合格するか、他の予備校に通っていました。
そのため、同じ医学部進学コースには同級生が一人いただけで、他に友人らしい友人はいません。
朝起きたら予備校に行き、授業を受けて、自習して、勉強して、帰って寝る。
家族以外との会話は、昼休みに友人と少しと、質問がある時に講師に尋ねる程度。
生活にメリハリも何もありません。

この生活をさらに一年、二年続けるのは耐えられない…!

絶対に!絶対にこの一年で受からなければ!
ついにここで火が付き、全身全霊で勉強に集中し始めました。
ちなみにこの頃、私の得意科目は数学と物理、化学でした。要するに根っからの理系です。
中学受験の時と異なり、大学受験の物理や化学は計算や思考が問われます。
相変わらず暗記を面倒くさがる私は、これがけっこう好きでした。
同時に、センター試験のような「広く浅い知識を要求される問題」というものが苦手でした。
そして最初に行ったのは、全国の国公立医学部のリストアップでした。(財力的に私立校は不可能でした)
各医学部のセンター試験と二次試験の配点比率や実施科目を全てノートに書き出しました。
その中で、センター試験の配点が低く、二次試験で理系科目の比重が高いところを探し出しました。
手に入る限りの過去問も参照し、問題の傾向を把握しました。

間もなく、私はある一校に絞り込みました。
その大学はセンター試験の点数があまり重要視されず、二次試験における理系科目の比重が高く、しかも物理・化学試験の難易度が非常に高い、かなり癖のある部類に入る試験内容の学校でした。
まさに理系特化型である私の求めていた試験です。
早いうちからこの学校に狙いを絞っておくことで、他の受験生より有利に立てるはず。
そう考え、その学校に受かるための勉強を始めました。

それからはただひたすら、勉強漬けの毎日でした…
自分に許す娯楽は「昼食時と寝る前に漫画を読むことだけ」と決め、他の趣味は全て断ちました。
もう一つの工夫として、「予備校の自習室でだけ勉強する」「家では勉強をせず、体と頭を休める」という制限を設けました。
少しでも生活のメリハリをつけようと考えた末の苦肉の策でした。
謎の発熱
そんな生活を初めた矢先、5月のことです。
謎の発熱と頭痛で布団から立てなくなりました。

奇妙なことに他に何の症状もなく、咳や腹痛などが出るわけでもありません。
家族も心配しますが、苦痛で立ち上がれないので寝ておくしかありません。
すると、これまた奇妙なことに1~2日で治り、いつも通り予備校に通えるようになりました。
あれは何だったんだろう、そんなことを考えていると、7月にも同じ症状に襲われました。
この時も1~2日で治りました。
自分の中で結論が出ました。
おそらく、勉強しすぎて脳がパンクしたのだと思います。
この症状はコンスタントに2か月ごとに出現し、9月、11月にも症状に襲われました。
人間はあまりにも勉強をしすぎると2か月に1回倒れるようです。(私だけかも)
センター試験
そんな脳のパンクに悩まされつつも勉強を続けました。
年末が近づくと、センター試験の対策も必要になってきます。
センター試験が重要視されない大学と言っても、所定の点数を取れなければ二次試験が受けられない、
いわゆる「足切り」はあり得る大学でしたから、センター試験もそれなりには対策しなければなりません。
12月からは、同じ予備校に通っていた高校の同級生三人と一緒にセンター試験の勉強を始めました。
四人で毎日、センター試験過去問や模擬試験の2~3教科分を解き、採点し、解答を議論し合いました。
この四人での勉強会は丁度良い気分転換にもなったのか、
ジンクス通りだと倒れてしまう1月も乗り切ることができました。
ここで痛感したのは、良い仲間と一緒に勉強をすることの大切さです。
県下有数の進学校だっただけあり、同級生三人は優秀な人間でした。
彼らと一緒に勉強ができたことは非常に大きかったでしょう。
全く勉強しない中学・高校生時代でしたが、そういう意味では中学受験をした意味は大いにありました。
そして迎えたセンター試験。
高3の時は比較的近所で受験することができたのですが、
なぜか浪人時はやたらと遠方で受験することになりました。

寒い…遠い…寂しい…
現役生の時に受かってればよかった。
そんなことを考えてしまう程度には過酷なセンター試験の道中でした。
そして何とか足切りを回避できる程度の点数をとり、二次試験に挑みました。
二次試験
二次試験の対策は春からずっと行っていましたから、それなりの手ごたえを得ることができました。
問題は面接試験でした。
ほとんどの医学部入試では学科試験の他、面接試験を行っています。
端的に言えばやべえ奴を医者にしないための試験です。

やべえ奴といえば、中1~高2まで皆目勉強せずに両親や教師に迷惑をかけまくった人間がここにいます。
面接官にそれが伝わらないよう、鋼の錬金術師のキンブリーのごとく一般人のフリを心掛けなければなりません。
そして始まった面接試験。
面接会場には小さな部屋が3つほどあり、受験生が番号順にその中の1部屋に呼ばれるというものでした。
そこで事件が起きました。

ええと…やっきー君、ね。

はい!やっきーと申します!

何科の医者になりたいの?

(キタコレ!親父が産婦人科だと言えば受けはいいだろう)

(ついでに「医療に献身的な学生」アピールもしておくか)

父が産婦人科医ですし、なり手が減っていると言われる産婦人科医や小児科医を志望しています!
※(この時点では)真っ赤な嘘です。
学生時代は産婦人科医になるつもりは全くありませんでした。

減ってる?産婦人科医や小児科医が?

えっ…?

産婦人科医は確かに減ってるけどね。小児科医はむしろ増えているんだ。

君はあれだね。典型的な、マスコミに踊らされるタイプの人間だね。

は…はい…

終わった…俺の受験は終わった…
このあとにも他の面接官の先生からいくつか問答をした気がしますが、
正直このやり取り以外何も覚えていません。

(そういえば予備校にあった、各医大の面接試験を受けた受験生の感想をまとめた資料…確かあの中に…)
「〇〇大学(やっきーが受けた大学)の面接試験は穏やかだった。高校の部活を聞かれたりした。」
「〇〇大学の面接試験は圧迫面接すぎてヤバかった。殺されるかと思った。」
「〇〇大学の面接試験は平和だった。10分ほど取り留めのない会話をしただけだった。」

(3つのうち1つくらい何か不穏なことが書いてあった気がする…)

(あれは3部屋のうち、あの教授がいる1部屋を引いた不運な受験生の悲痛な叫びだったのか…!)
こういった苦難を乗り越え、ついに合格通知が舞い込みました。
一応、あの面接は大丈夫だったようです。
ちなみに数年後、この教授が院内で(悪い意味で)評判の先生だったことを知るのはまた別のお話…
まとめ
以上、私が医学部に入学するまでの受験記はいかがでしたか。
中学・高校生時代に一切勉強をせず、全て遊びに使った末、一年間の浪人でギリギリ医学部に合格した実例をご紹介したわけですが、あまりにも辛かったので他人には全くお勧めできません。
私の「人生で辛かった期間ランキング」をつけるとするならば、「浪人生の一年間」が1位になることは間違いありません。
同時に、「人生で嬉しかったことランキング」をつけても、「大学合格」は1位になるでしょう。
今後このランキングが動くことはおそらくありません。
そのくらい、血が滲む思いで一年間の全てを大学受験に捧げました。
しかし医学部に入ることが目的なら、こんな冒険をせず普通に小・中・高とコツコツ勉強をする方がよほどお勧めです。
特に私の場合、中学受験に成功して良い仲間を得ることができたのは大きかったと思います。
おかげで、中・高で多少の回り道をしつつも医学部に合格することができました。
例えば、ぱぱりん先生の『中学受験を勝ち抜く情報サイト』などで中学受験のメソッドが学べます。
ぱぱりん先生とは医者ブロガー仲間で、いつも良質な記事を執筆されています。
お子様の受験をお考えの方は、是非こちらもご覧くださいね。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました!
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