こんにちは!
産婦人科医やっきーです!
本日の【漫画描写で学ぶ産婦人科】は手塚治虫先生『ブラック・ジャック』より、
常位胎盤早期剝離と緊急帝王切開に関する解説です。
ついに来ましたよ、『ブラック・ジャック』を取り上げる日が。
こんな新参ブログが漫画の神様に触れるなど畏れ多すぎるため今まで手を出していませんでしたが、
医療系漫画ブログを書く上で『ブラック・ジャック』は避けては通れぬ道。(そんなジャンルが他にあるかはともかく)
そんなわけで、いよいよ手塚漫画に取り掛かることにしました。
というわけで『ブラック・ジャック』について解説しましょう。
『ブラック・ジャック』とは、無免許ながら天才的な技術を持つ外科医、ブラック・ジャックを主人公とした医療漫画です。
それまでにほぼ存在していなかった医療漫画というジャンルの草分けにして頂点とも呼ぶべき作品であり、
ヒット作を生み出せなくなり「昔の漫画家」扱いされていた手塚治虫先生を再起させた名作です。
医師免許を持っていた手塚治虫先生ならではのリアリティとフィクションが共存した医療描写、
ブラック・ジャックやピノコといったキャラクターの個性、常に斬新なストーリーには未だにファンが多く、
ブラック・ジャックに憧れて医者になった人間は後を絶ちません。
というか私もメチャクチャ影響を受けています。
連載開始は1973年ということで、ほぼ50年前の作品なのですが、
半世紀も前の作品とは到底思えないほどに面白く、完成されています。
それでは、今日はそんな『ブラック・ジャック』のエピソード「激流」より常位胎盤早期剝離と緊急帝王切開について解説しましょう。
「激流」
山奥のゴルフ場に往診し、帰路についていたブラック・ジャック先生(以下BJ先生)。
しかし土砂降りの影響で橋が崩れてしまっており、他の道を探し始めたところ、山中で一軒家を発見します。
おかみさんに他の道を尋ねてみますが橋はひとつしか無く、渡し舟があるものの今日は休みだと言われます。
今日中に山を下りなければならないと食い下がるBJ先生ですが、渡し守はその一軒家。
旦那さんは出稼ぎに出ており、船を出すことは断られてしまいます。
すると、突然お腹を痛がるおかみさん。
陣痛ではないかとみたBJ先生は鎮痛剤を注射しました。
おかみさんは注射のおかげで楽になり、BJ先生をもてなします。
安静にするようたしなめるBJ先生ですが、
17人の子どもを持つおかみさんの経験上、あと半日は産まれないはずだといいます。
お礼に渡し舟に乗せてくれることになりましたが、
二人が向こう岸に着くやいなや鉄砲水に襲われます。
下流へどんどん流されていき、ついにイカダごと岩に座礁しました。
とても身動きのとれる地形ではなく、しかもおかみさんは頭を打って気絶。
そして、お腹を強く痛がり始めました。
どうやら赤ちゃんの心音も弱っている様子。
BJ先生いわく子宮出血か胎盤早期剥離を疑い、ただちに緊急帝王切開を始めました。
厚い脂肪に阻まれて切りにくく、しかも揺れるイカダの上ということでBJ先生の技術をもってしても難しい手術でしたが、
無事に赤ちゃんを娩出し、蘇生処置をして帝王切開を終えます。
しかしやがて渡し舟も壊れてしまったため、おかみさんはBJ先生に赤ちゃんを託し、泳いで助けを呼びに行こうとします。
当然引き留めるBJ先生ですが、制止を振り切って川に入ってしまいました。
その後、しばらくすると救助が来ました。
話によると、おかみさんの死体が流れてきたことに驚き、川上にやってきたとのこと。
BJ先生はこの出来事を川で産卵し、力尽きて死んでいく鮭に例えて振り返るのでした。
「激流」を考察する
幼少期にこれを読んだ時は「すごいけど無茶するおかみさんだなあ」くらいの感想でしたが、
今読んでみると残された旦那さんと子どもたちが可哀想すぎるだろと思ってしまいますね。
家族からすれば、休業中にも関わらず渡し舟にBJ先生を乗せたことがきっかけでお母さんを亡くしたわけですから(おかみさんの好意とはいえ)、
恨みを買ってもおかしくない状況です。
それにしてもBJ先生、さっき手術した人が亡くなったというのに鮭に例えるとは異常に淡泊な反応ですね。
もうちょいショック受けませんか普通。
「無理してでも私が行っていれば…」と思ったか思わないか、残された子どもたちを何らかの方法で支援するのか、
先生の横顔からそれを伺い知ることはできません。
そもそも、おかみさんはどうやって産むつもりだったのでしょう?
家の周囲の情報はほとんど描写されていませんが、BJ先生が歩き回ってやっと見つけた一軒家ですし、
陣痛が来てなお病院に行ったり産婆さんを呼んだりする気配が全くないところを見ると一人で産むつもりだったのかもしれません。
18人目の赤ちゃんとはいえ恐ろしい決断です。
ちなみに、〇回の出産経験があり、△人目の妊娠をしている人のことを産婦人科では「△経妊〇経産」(または△妊〇産)と呼びます。
私が過去に経験した方の中だと、最多でも8経産といったところでした。
その8経産でもカンファレンスがざわついたものです。
このおかみさんは、流産や双子などの可能性を無視して考えると18経妊17経産という恐ろしい数字になります。
上の子は高校生とのことで、1年に1~2人産むことを15年以上続けなければ間に合わないハイペースですね。
17経産って可能なの?と思われるかもしれませんが世の中、上には上がいます。
ギネス世界記録に載っているものとして、ロシア人の女性が1725年から1765年の間に69人の子どもを出産した例があります。
その全てが双子~四つ子のため、出産回数で言うと27経産。人間って凄いですね。
(参考:ドクターマップ ギネスブックに載っている妊娠・出産)
鎮痛剤について
おかみさんに陣痛が来ている時にBJ先生が鎮痛剤を注射しました。
上腕に注射してるところを見ると筋肉注射でしょうか。
現代の産婦人科で陣痛の緩和目的で筋肉注射をすることはまずありませんが、これはいったい何の薬なんでしょう…?
注射の形で投与可能な鎮痛剤としてはアセトアミノフェン(アセリオ®など)やNSAIDs(ロピオン®など)がありますが、
これらを筋肉注射することはまずありませんし、だいいち陣痛の痛みに対してあまりにも無力です。
例えるなら天津飯がナッパに当てた気功砲くらいの効果しかありません。
筋肉注射なら、ひと昔前では欧米を中心にペチジン(オピスタン®など)が無痛分娩に使われていたことがあります。
※今はもっと良い無痛分娩の方法が発見されたため滅多に使われません。
ただし、これも赤ちゃんの呼吸が阻害されたりといった副作用が起きかねませんし、だいいちペチジンは麻薬性鎮痛薬であり厳格な管理が求められます。
使うか分からない麻薬を持ち運ぶのは相当に手続きがめんどくさそうです。
あとは、筋肉注射でよく使う鎮痛薬となるとペンタゾシン(ペンタジン®など)の可能性もありますね。
これはこれで厳重な管理が必要な第2種向精神薬ですが。
1970年代当時の麻薬・向精神薬の取り扱いについては流石に調べられませんでしたが、
状況から考えて、BJ先生が投与したのはペチジンかペンタゾシンのどちらかでしょう。
ただ、そもそも根本的な問題として私なら初めて会った妊婦さんに鎮痛剤を投与しません。
陣痛で苦しんでるのを放っておくのが医者として心苦しいのは分かりますが、
どんな持病やアレルギーがあるかも分からない初対面の人に薬を投与するのは非常にリスキーな行為です。
陣痛中の渡し舟
BJ先生も諫めていますが、陣痛が来ているにも関わらず橋が落ちるほどの激流の川を舟(というかイカダ)で渡ることに関しては正気の沙汰ではありません。
私ならおかみさんが舟に乗り込んだ時点で体を張って止めますし、
ゴルフ場なら確実に他のルートもあるでしょうから、多少急いでようが引き返します。
1970年代のゴルフ場の交通環境にはさすがに詳しくありませんが、ゴルフ場には重い重いゴルフセットを持って行くわけですから、
車やバス・タクシーが通るもっと大きな道があるはずですが、なぜBJ先生は徒歩で下山していたのでしょう…?
まあ、そこはBJ先生が近道をしなければならない程に急いでいた、降り続いた大雨の影響で交通機関が麻痺していた等の解釈をすることにしましょう。
常位胎盤早期剝離
さて、いよいよ本題の「常位胎盤早期剝離」ですね。
劇中では「胎盤早期剥離」と言われていますが、基本的には同じものと考えて頂いて大丈夫です。
簡単に言えば、本来は赤ちゃんが産まれてから胎盤がはがれるところを、胎盤が先にはがれてしまうという病気です。
放置すると母体も赤ちゃんも命の危険にさらされる、非常に怖い病気ですね。
常位胎盤早期剥離は、原則として一刻も早く帝王切開をしなければなりません。
そして、舟が座礁した直後からおかみさんはお腹を痛がり始めました。
BJ先生の見立てでは異常な痛がり方であり、赤ちゃんの心音の低下もあるようです。
これはおそらく、腹部外傷に伴う早期剥離ですね。
常位胎盤早期剝離は破水や陣痛などに伴って起きることが多いですが、他の原因としてはお腹を強く打った時などに生じることもあります。
具体的には交通事故などが危険性が高いです。
BJ先生が挙げている「子宮出血」とはおそらく「子宮破裂」のことかな。
今回のように強い衝撃が腹部に加わった状況では、確かに子宮破裂も可能性に置くべきです。
子宮破裂を起こした場合も、一刻も早く帝王切開をする必要があります。
どちらにせよ、すぐに帝王切開を決断したBJ先生の判断は妥当と言えるでしょう。
帝王切開の麻酔
そしてBJ先生は舟の上で手術をするわけですが、
本来、帝王切開なら以下の2つのどちらかの麻酔が必要です。
◎脊髄くも膜下麻酔
背中から注射し、脊髄に麻酔薬を効かせて下半身の痛みをとる麻酔
◎全身麻酔
血管に薬を注射し、母体を眠らせて行う麻酔
しかし、脊髄くも膜下麻酔はどんなに急いでも3~4分はかかりますし、
全身麻酔だと人工呼吸器をつないで麻酔薬を持続的に投与して…と、
とても舟の上で一人でできるようなものではありません。
早期剥離で赤ちゃんの心拍数が下がっているという状況は一刻を争う超緊急事態です。
それこそ10秒遅ければ赤ちゃんの命が失われる可能性すらあります。
そんな緊急事態で、数分かかる脊髄くも膜下麻酔なんてやってる暇はありません。
こうなると最終手段の中の最終手段、局所麻酔になります。
BJ先生は執刀前、術野に布をかけたあと注射用シリンジを掲げていました。
この手順はおそらく局所麻酔でしょうね。
局所麻酔は歯医者さんで行う麻酔と言えば分かりやすいと思います。
これが帝王切開において最終手段となる理由は簡単です。痛いのです。
局所麻酔が効く範囲は非常に狭く、注射したところの周辺にしか効きません。
これは帝王切開で切る範囲に比べるとあまりにも小さいのです。
BJ先生としてもやむを得ない判断だったに違いありません。
例えるなら天津飯がセルに放った新気功砲くらいの効果しかありません。
帝王切開の手技
BJ先生は帝王切開を開始しました。
脂肪が分厚くて切りにくいと言っています。
私も時々もんのすごい肥満患者さんを帝王切開することがありますが、体重が増えるごとに難易度も跳ね上がります。
それも、私のような若輩産婦人科医ではなく歴戦のBJ先生が「こんなに切りにくい腹もめずらしい」と言うわけですから、よほど凄まじい肥満だったのでしょう。
ところでBJ先生はここで神経を切りそうになったと言いますが、
帝王切開で切る範囲の中にそんな大きな神経はありませんし、
私自身も今まで帝王切開をしてきて神経を切りそうになったことは一度もありません。
これは果たして何の神経のことを指しているのでしょうか。
そしてBJ先生、えらく変わった子宮の切り方をしています。
子宮を掴んで縦に切り、羊膜(厳密には卵膜?)ごと赤ちゃんを取り出しています。
通常、帝王切開では「子宮下部横切開」という方法をとります。
子宮の下側を横に切って赤ちゃんを取り出すのが最も子宮へのダメージが少なく、次回の妊娠時を考えると安全なのです。
BJ先生が行ったような子宮を縦に切る方法は「古典的帝王切開」と呼びますが、
これは子宮へのダメージが大きく、出血が多くなりますし、次の妊娠時に子宮破裂を起こす確率も上がります。
現代の医学においてあえて古典的帝王切開を行うケースとしては、超早産で赤ちゃんへの負担をなるべく少なくしたい場合や、前置胎盤などの影響で子宮下部横切開が使えない場合等、非常に限られます。
破水させずに卵膜ごと赤ちゃんを取り出す「幸帽児娩出」をあわせて行っているところを見ると、
BJ先生の帝王切開は28週未満くらいの超早産に対して行うような手法をとっていますが、
今回の赤ちゃんは泣いて自力で息ができる程度(少なく見積もっても32~34週くらい)には成熟しているようです。
よって、BJ先生が何故こんなリスキーな帝王切開をしたのかは謎です。
とはいえ、産科医療に普段携わっていないのに早期剥離を的確に診断し、帝王切開で母児を救えただけでもさすがBJ先生と言わざるを得ませんが…
帝王切開の術後
言うまでもありませんが、帝王切開の直後に激流を泳いでいくのはただの自殺行為です。
少なくとも一日は安静にしましょう。
そもそも局所麻酔で帝王切開した直後なんて普通は痛くて動けないと思いますが、赤ちゃんのためなら文字通り命を張れる母の強さが表れている…のかもしれません。
BJ先生が代わりに行くとか、大声で助けを呼ぶとか、もっと他に手段が無かったのかとは思いますが。
まとめ
以上、『ブラック・ジャック』より「激流」の常位胎盤早期剝離について解説しました。
やはり『ブラック・ジャック』は名作中の名作ですね。
いつ読んでも新しい発見があり、医療や命について考えさせられます。
これを機会に読んでみてはいかがでしょうか。
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