こんにちは!
産婦人科医やっきーです!
今回の題材は、毎度おなじみ『ブラック・ジャック』です!
言うまでもなく医療漫画界の超名作ですが、そんな『ブラック・ジャック』という作品を考察する上で非常に重要度の高いキャラクターの1人が如月めぐみですね。
理由は単純明快で、ブラック・ジャック先生(以下BJ先生)が作中で唯一、明確に異性としての好意を示した女性であるからに他なりません。
そんなわけで、今回は如月めぐみが登場するエピソード「めぐり会い」を解説していきましょう!
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如月めぐみ
ブラック・ジャックの恋愛事情
如月めぐみについて解説する前に、BJ先生の恋愛事情について簡単におさらいしておきましょうか。
そもそもBJ先生は顔に大きな傷痕があり、傷痕を境にして顔の左右で皮膚の色が異なる、髪の毛も右側半分ほどが白いという非常に特徴的な外見をしています。
それゆえに第一印象は作中多くの人から「気持ち悪い」「不気味」と評されていますね。
しかし顔立ちそのものはハンサムですし、人情味があり喧嘩も強く、世界有数の天才外科医であるといった数々のプラス要素が欠点を補って余りあるため異様にモテます。
作中でも小島の内科医・清水きよみや、義肢の作成・リハビリを行ったジェーン・ギッデオン伯爵夫人など、BJ先生にベタ惚れした女性は数知れず。
末期癌患者の青鳥ミチルに至っては、BJ先生と(形だけとはいえ)結婚式を挙げました。
ミチルの癌は全身に18か所以上の転移があり、余命は一週間あるかどうかという状況でしたが、
BJ先生の神技的な手術により完治を果たします。
癌を克服したミチルはBJ先生への愛情を募らせますが、
「医者は患者をなおすだけが商売だ……さようなら」
と言い残して去ります。こんなクールな女性の振り方が未だかつてあったでしょうか。
このようなモテモテジャック先生ですが、作中で描写されるのはことごとく女性からの一方通行な恋慕ばかりです。
それに対し、BJ先生本人から特定の女性へ好意が示されたケースはわずか3人しかいません。
1人目は皆様ご存知・ピノコです。
初期こそ厄介な同居人のように扱い、養子に出そうとしたことすらあるものの、
ピノコが命の危機に瀕した際には誰よりも奔走し、いつしか夫婦であり父娘でもあるという独特な関係性を築いていきます。
普段はわりとドライなBJ先生も、夢の中でとはいえ「最高の妻」と発言するなど、全編を通して最も特別な存在であることは疑う余地もありませんね。
そんなピノコの出生についてはこちらで解説しています。
2人目は桑田このみ。
優秀かつ冷淡な外科医であることから「ブラック・クイーン」とあだ名され、飲んだくれていたところを偶然出会ったBJ先生に絡みまくるというなかなかの初対面でした。
BJ先生の性格的にはこんな迷惑な人間は突き放しそうなもんですが、
「桑田このみ」という名前だけを手掛かりに都内にいくつあるか分からない病院から彼女を探し出し、
クリスマスプレゼントにラブレターらしき手紙を携えて訪れるというBJ先生らしからぬ積極的な行動を取ります。
しかし桑田このみに婚約者がいたことを知ったBJ先生は、
あわや下肢切断の重傷を負った婚約者を無償で手術し、自ら身を引きました。
酔った状態でのウザ絡みというわりと最悪の第一印象であったにも関わらずBJ先生がここまでするのはきわめて異例で、
冷淡な外科医として扱われたことへの共感か、はたまた単純に顔が好みだったからかは分かりませんが、
彼の恋愛観を知る上で数少ない手掛かりであることは明白でしょう。
彼女の結婚後に再会した際「たしかに……ある時期 私はあなたが心に焼きついたことがありましたがね」と語るなど、
過去の話とはいえ惹かれていたことを明言した数少ない女性の一人です。
そして3人目が、BJ先生自ら明確に好意を言葉にした唯一の人間である如月めぐみであり、
彼女が登場したエピソードが「めぐり会い」です。
「めぐり会い」
「めぐり会い」が掲載されたのは週刊少年チャンピオン1974年11月25日号です。
これは連載第50話・約1周年にあたり、それまであまり語られることのなかったBJ先生の医局員時代や恋愛事情にフォーカスした話としても考察が捗る作品となっています。
ある日、BJ先生のもとに一本の電話がかかってきました。
「如月恵」と名乗る電話の主は、5年振りに日本へ帰国した船医でした。
いつになく高いテンションで、港の見える丘公園での待ち合わせを提案するBJ先生。
「その男にあってくるんだ」と話しつつ、いそいそと準備を整えます。
彼に渡すというアルバムをピノコが盗み見ると、そこには見知らぬ女性の写真がズラリと並んでいました。
「この女は… これからあいにいく男の妹だっ」「おさっしのとおり 恋人だったよ」と話し、
ヤキモチを妬くピノコに対し「安心しろ その女性はもうこの世には存在しない」と説明しました。
こうして如月先生との再会を果たしたBJ先生は、ピノコをぞんざいに車の中で待たせ、
夜景を眺めながら2人で話し込み始めました。
その後、ピノコは迷子になったフリをして如月先生に近付き、
如月先生の妹がどんな人物だったのかを聞き出し始めました。
BJ先生と如月先生の妹・めぐみは医局の先輩と後輩の関係でした。
めぐみがBJ先生のことを気にし始めたのは、雨が降ると医局にこっそりBJ先生が傘を立てかけてくれていることに気付いた時からだったといいます。
ある時、夜道で一人帰宅していためぐみは不良に絡まれてしまいますが、
こっそり彼女を100メートルほど後ろで追いかけていたBJ先生により不良は撃退されます。
ちなみに、この監視行為はいつも行われていた模様。
えっ大丈夫?
めぐみはやがて、医局でも孤立していたストーカーBJ先生のことが気になり始め、いつしか彼を愛し始めていることに気付いてしまいました。
そんな中、彼女が子宮ガンに侵されてしまったことが発覚します。
「私に手術をやらせてください!!」と上司に懇願するBJ先生。
教授の監督すら断り、めぐみを他人に触らせまいとするかのように診察も治療も全て一人で行うことにしました。
えっ大丈夫???めぐみさん逃げて
BJ先生は彼女の病状と手術について、このように話しました。
「そうだよ ガンだよ」
「かなり重症だ 明日手術する」
「子宮と…それから卵巣まで切りとってしまう」
「つまり きみの女の部分をすっかりとらなけりゃならないんだ」
「子宮からは 子宮ホルモン 卵巣からは 卵巣ホルモンといって 女らしさをつくる重要な分泌液が出ているんだ」
「この器官をとってしまうことは 女であることをやめてしまうこととおなじだ…もちろん 赤ちゃんも産めなければ女らしさもなくなる」
ちなみに「卵巣ホルモン」はともかく「子宮ホルモン」なるものは存在しませんし、
1970年代当時にそういった説が唱えられていたという文献も見当たらなかったのでBJ先生の思い込みだと思われます。まだ若かったからしょうがないね。
翌日、めぐみと2人だけで手術室に入ったBJ先生は胸の内を打ち明けます。
「きみが女であるあいだにいっておこう」
「めぐみさん きみが好きだ 心から愛している!」
からのチュー!!
からの鼻チュー!!!
そして決め台詞、「この瞬間は永遠なんだ」が炸裂しました。
BJ先生の至りまくった若気がここまでハッキリ描写されるのも珍しいですね。
確かに初めての彼女ってこういうテンションになるよね。わかるよBJ先生。
そんなこんなでBJ先生の黒歴史を堪能したところで、めぐみの手術は無事に終了したようです。
手術は一時間で終わり、子宮も卵巣も一切を摘出され静かに眠っていました。
手術後のめぐみがどうなったのかを聞き出そうとするところで話は中断。
BJ先生がピノコを無理やり連れて帰りました。
出港の日、BJ先生はもう一度如月先生に会いに来ました。
彼にアルバムを渡し、「きみのむかしの写真だ」と告げ、出港を見送りました。
そう、実は如月恵先生の正体は、子宮や卵巣を摘出した如月めぐみ本人だったのです。
彼女は男性として生きるために、名前の読みを変え、過去を忘れるために船医という仕事を選んだのでした。
…まあ今なら「だろうな」と思える展開ではありますが、
これを初めて読んだ小学生当時の私は「何てどんでん返しだ!!!手塚治虫は天才か!!!」と思ったものです。
いや天才なのは疑いようのない事実なんですが。
なお、こちらの「めぐり会い」はチャンピオン・コミックス5巻、または秋田文庫版1巻、または手塚治虫漫画全集2巻、または手塚治虫文庫全集3巻に収録されています。ややこしいわ
「めぐり会い」について考える
BJ先生の心情
医学的な考察に入る前に、如月先生から電話をもらったBJ先生がいかにウッキウキに浮き足立っていたかを考えていきます。
如月先生から突然の電話をもらったBJ先生は「港の見える丘公園」で待ち合わせをしたわけですが、
「港の見える丘公園」は横浜に実在する名スポットのひとつです。
ちなみに近畿・中国地方以外に住んだことのない私(やっきー)にとってはぶっちゃけ今回調べるまで実在することすら知りませんでした。
横浜は中華街と横浜スタジアムくらいしか行ったことがないんや…
せっかくですし、当時の状況も含めて調べてみましょう。
「港の見える丘公園」は横浜港を見下ろす小高い丘にある公園です。
起源としては幕末の横浜港開港に端を発し、当時はイギリス軍やフランス軍の駐屯地として利用され、太平洋戦争後はアメリカ軍など進駐軍により接収されました。
やがて接収が解除されると横浜市が公園として整備を進め、1962年から一般客に開放されると、家族連れやカップルにとって定番の観光スポットとして認知されるようになったといいます。
BJ先生と如月先生が並んでいるこのあたりは、現在で言うところの横浜ベイブリッジを望む位置でしょうね。
(ベイブリッジの着工は1980年なので、1974年の連載当時にベイブリッジはありません)
YouTubeチャンネル・宮城太郎さんの動画「港の見える丘公園【昭和レトロ】横浜1985 昭和60年8月 昭和と今を比較|昭和映像シリーズNo.60」にて昭和60年(1985年)当時の貴重な映像が確認できますが、
『ブラック・ジャック』の描写と比べるとベンチやゴミ箱、フェンスなどに非常に多くの共通点が見られます。
どうやらこの場所で間違いなさそうですね。
どちらにせよ、1974年当時から恋人たちの定番デートスポットのひとつとして確固たる地位を築いていた模様であり、
如月先生が横浜にいると知ったBJ先生が即座に待ち合わせ場所に指定したあたりから彼の本気度が伺い知れます。
また、如月めぐみのアルバムを取り出す際、
BJ先生はピノコに「その戸棚の中にアルバムがある とってきてくれ」と頼みました。
アルバムを盗み見て嫉妬心を浮かべるピノコに対し「そんなもの見ちゃいかん!」とたしなめるBJ先生。
いやアルバムくらい自分で取ればいいのにと思うところですが、ピノコがアルバムを勝手に見て嫉妬するであろうというごく当然の予想にすら気が回らないほど浮き足立っていたのでしょう。珍しいですね。
ちなみに『ブラック・ジャック』全編を通して如月めぐみはあと2回だけ登場するのですが、
そのうちの1つ「海は恋のかおり」にて、めぐみから手紙を貰ったBJ先生はポエムを詠んだり崖の上で独り言をつぶやいたりと中学生でもやらんような恥ずかしい行動を取っています。
できればBJ黒歴史製造機としてもう2~3回くらい登場してほしかったところですね。
「子宮癌」とは?
というわけで当ブログ的な本題に入りましょう。
如月めぐみが発病したという「子宮ガン」についてです。
「子宮癌」と呼ばれる癌には大きく分けて2つの種類が存在します。
1つは赤ちゃんが育つ場所「子宮体部」に発生する癌・「子宮体癌」、
もう1つは赤ちゃんの分娩時の通り道である「子宮頸部」に発生する癌・「子宮頸癌」です。
これらは「子宮にできる癌」という意味では同じグループですが、病気としての性質も治療方法も大きく異なるので医学的には明確に区別されます。
少なくとも、現代の産婦人科医学において「子宮癌」と呼ぶことは滅多にありません。(「子宮由来の悪性腫瘍」を総括した言葉として使いたい時くらい)
ちなみに、子宮に発生する悪性腫瘍としては「子宮肉腫」という稀な種類も存在しますが、
これは若年者に起こるのは非常に稀かつ独特な性質を持っているので今回は割愛します。
以上を踏まえて、如月めぐみが発症したのは子宮頸癌と子宮体癌のどちらなのか、劇中の描写を掘り下げてみましょう。
劇中の描写
如月めぐみの手術を行う前に、BJ先生の上司たちがしきりに
「手術しても むだかもしれんね」
「如月くんのガンは 発見がおくれたため手術がむずかしいんだ きみなんかにはとてもむりだ」
と病期の進行を伺わせる発言をしています。
上の2コマ目に描かれているイラストは子宮体癌のように見えますが、
この後に出てくる手術中の描写と比べると明らかに別物ですし、
「この図が如月めぐみの疾患と同じものを表している」と言える根拠がないため今回は無視して考えます。
どちらにせよ、教授ですら半ば匙を投げるほどに進行した子宮癌であることは間違いないようです。
それでは、「手術できないほどに進行した子宮癌」とはどういった状況でしょうか?
子宮頸癌や子宮体癌といった悪性腫瘍には、癌がどのくらい広がっているかを表す「進行期分類」が存在し、1期~4期のうち数字が大きいものほど進行している癌として表されるのですが、
子宮頸癌であれば3期以上の場合は手術を行うべきではないとされています。
(※本来、悪性腫瘍の進行期分類は「Ⅲ」「Ⅳ」などのローマ数字で表しますが、本記事内では見やすさを優先して「3」「4」などのアラビア数字で表記します)
これに対して子宮体癌の場合、(子宮頸癌に比べると摘出しやすい場所の癌だという事情もあり)3期や4期に進行した癌だとしても子宮摘出が推奨されます。
子宮体癌で手術が不可能な症例となると、膀胱や直腸にまで浸潤している、癒着がきわめて強固である、全身状態が不良で手術に耐えられる可能性が低い等、なかなかの事態になっている場合に限られます。
その上で、ほぼ唯一と言ってもよい具体的な手掛かりが手術の描写ですね。
この描写を見る限り、明らかな子宮漿膜面への浸潤・卵巣への転移・子宮体部や付属器周囲の癒着は見受けられません。
もし子宮体癌だとするならば、このコマを見る限り教授が摘出不可能と判断するほどの進行子宮体癌にはとても見えません。
(写っていない子宮後面で直腸と癒着していたら分かりませんが)
加えて、子宮体部左側で2本の血管が結紮切離されています。
はっきりとは断定できませんが、これは子宮動脈と深子宮静脈かな?
この2本を結紮切離しているということは、子宮頸癌に広く用いられる「広汎子宮全摘」という術式を行っているのでしょう。(たぶん)
以上のことから、如月めぐみの疾患は子宮頸癌である可能性が高いと思われます。
1979年に発表された『Stage別にみた女性性器癌の治療 – 子宮頸癌 -』(筒井章夫,最新醫學 34(4): 718-722, 1979.)には、「手術療法の原則は2期までである」とあります。
これは現代の知見と一致しており、1974年当時も同様に考えられていたようですね。
教授たちが手術に消極的であったことから察するに、おそらく如月めぐみは3期以上の子宮頸癌だったのでしょう。
3期以上の子宮頸癌を手術するとなると、膀胱や直腸・骨盤の神経や血管などを損傷するリスクはきわめて高く、
「彼女をみすみす殺すようなもんだぞ!」と言われてしまうのも無理からぬことです。
そもそも子宮体癌は1974年当時、子宮頸癌に比べて非常に稀な疾患でしたし、
子宮頸癌に比べて子宮体癌は中高年に発症しやすいという疫学的な事実を踏まえても、
やはり如月めぐみは子宮頸癌である可能性が高いと思われます。
「子宮癌」の歴史
そもそも、なぜBJ先生ともあろう名医が何度も「子宮癌」という大ざっぱな呼び方をしていたのでしょうか?
それを解明するため、国内文献の検索サイト「メディカルオンライン」にて「子宮癌」「子宮頸癌」「子宮体癌」でそれぞれ可能な限り古い文献を検索してみましょう。
その結果、各病名が表題に記された最も古い文献は、
「子宮癌」が1938年の『子宮癌早期診斷法トシテノSchiller氏沃度法』(牧野禮一郎,九州醫學專門學校醫學會雜誌 3(1): 98-102, 1938.)、
「子宮頸癌」が1954年の『子宮頸癌手術に際してのMarbadalの應用』(真柄正直,日本臨牀 12(3): 297-300, 1954.)、
「子宮体癌」が1962年の『我が教室で加療した子宮体癌の臨床的考察』(安部宏,久留米醫學會雜誌 25(10/11): 1116-1121, 1962.)
にまで遡ることができました。
このことから、「子宮癌」という病名が最も古くから用いられていたことが分かりますね。
当時の「子宮癌」に対する考え方がよく分かる資料のひとつが、
1944年に発表された論文『我國に於ける子宮癌治療の現在と將來』(安藤畫一,日本臨牀 2(3): 243-250, 1944.)です。
この文献にはこのように記載されています。
一部の者は「癌は老人病であるから人口政策的意義は少ない」と唱へてをるが、少くとも子宮癌、殊に頸癌は一般に考へらるゝが如き老人病ではなく、凡そ三十年代から始まり更年期前後に多い疾患である。
(中略)
先づ子宮癌治療現狀の概要を述べ、その成績の憂慮すべき狀態にあることを告白し、この事は人口政策及び母性保護上に由々しき問題であつて、是非とも改善對策を講ずる必要あることを强調した。
『我國に於ける子宮癌治療の現在と將來』
このように文献を一通り読んでみると、1944年当時において「子宮癌」とは「子宮頸癌」の一般名称のように扱われていることが分かります。
そして、『我國に於ける子宮癌治療の現在と將來』という表題にも関わらず「子宮体癌」という記述そのものが存在しませんでした。
実際、前述したように1970年代以前の日本において子宮体癌という病気は子宮頸癌に比べてきわめて稀な癌でしたから、
当時の医学界では「子宮癌といえば子宮頸癌のことである」「子宮体癌は子宮癌の中でも稀なタイプ」「子宮癌と呼ぶ場合、子宮体癌のことを想定することは少ない」と考えられたとしても不思議ではなかったでしょう。
しかしながら、子宮頸癌と子宮体癌の病理学的・臨床的な差異が明らかになっていくにつれ、
「子宮頸癌と子宮体癌って区別して考えた方が良いんじゃね?」という考え方が主流になっていきます。
国内においてこの考え方の走りとなった論文が、上にも挙げた「子宮体癌」と表題に記述された中で最も古い文献である『我が教室で加療した子宮体癌の臨床的考察』(安部宏,久留米醫學會雜誌 25(10/11): 1116-1121, 1962.)ですね。
この文献ではこのような緒言が記されています。
子宮頸癌と子宮体癌は臨床的に種々の差異が見られる.子宮癌の大部分を占める頸癌については,諸方面より詳細に研究せられ,その診断・治療の進歩はめざましいものがある.体癌についても,その頻度は比較的少いとはいえ,婦人科領域の悪性腫瘍中重要な地位を占めることは論を埃たず,これまで種々検討されている.
『我が教室で加療した子宮体癌の臨床的考察』
こうした報告や研究の積み重ねにより、1960~1970年代にかけて「子宮癌といえばほぼ子宮頸癌を指す言葉である」という考え方は徐々に廃れていき、
1980年頃からはこういった認識のもとに書かれた文献は殆ど見られなくなりました。
子宮頸癌の手術法
続いて、如月めぐみが罹患していたと思われる子宮頸癌の手術法について詳しく解説していきましょう。
まず大前提として、最新の「子宮頸癌治療ガイドライン 2022年版」によると、
若年者の子宮頸癌に対する子宮と両方の卵巣の摘出(子宮全摘および両側付属摘出術)は勧められていません。
如月めぐみのような若年者であれば、特別な理由がない限り卵巣は残しておくものです。
卵巣からは「エストロゲン」という女性ホルモンが分泌されており、エストロゲンは女性の体調を整えるために一言では表せないくらい様々な役割を果たしています。
しかし卵巣を両方とも摘出すると体内のエストロゲンが枯渇してしまい、
骨粗鬆症・脂質異常症・心血管疾患・糖尿病などのリスクが上昇します。
脂質異常症や糖尿病などはじわじわと命をむしばむ恐ろしい病気ですし、
骨粗鬆症はちょっとした衝撃で骨折して日常生活に甚大な影響を与えます。
そのため、生理が来ている年齢=卵巣がエストロゲンを分泌している女性に対しては卵巣は片方だけでも残しておくべきというのが現代の医学の常識であり、
どうしても摘出せざるを得ない場合はエストロゲン(女性ホルモン)を補充する薬を使い、上記のような疾患のリスクを減らす必要があるわけですね。
では、1974年当時はどのような手術方法が取られていたのでしょうか?
1974年というとガイドラインが整備されるより遥かに前で、ある程度の判断は医者ごとの裁量に委ねられていた時代ですが、
当時の術式が伺い知れる文献として1985年に発表された『婦人科における癌診療の現況 ー 頚癌根治療法 (手術, 放射線) 後の性ホルモン欠落症状対策』(小林拓郎,産科と婦人科 52(4): 622-625, 1985.)があります。
ちなみに著者の小林先生は当時の東大の教授で、産婦人科医学の発展に大きく貢献した超スーパーメガトン級の名医です。
私の語彙力はさておき、とにかくすごい先生が書いた文献だと思って頂ければ大丈夫です。
この文献に書かれた重要な記述がこちらです。
子宮頚癌に対する手術術式としては,従来より両側付属器は子宮とともに摘出することが通常行われてきた.その第一の根拠としては,付属器転移の可能性のあること,また第二はたとえ卵巣を保存したとしても,術後の放射線療法によって卵巣はその機能を失い,卵巣保存の意味のないことの2点があげられてきた.しかし子宮癌検診の普及に伴い,初期癌の発見が高率となったこと,また患者が若年婦人の場合などには,卵巣の温存をはかるべきとの意見もみられるようになり,今日では頚癌0期ならびに新分類基準によるla期の症例に対しては,付属器への癌転移はまずないものと考えてよいとの立場から,卵巣を保存する術式を採択するものも少なくない.
『婦人科における癌診療の現況』
このことから、1985年以前において子宮頸癌に対する手術では両方の卵巣を摘出するのが一般的だったようです。
結論として、「めぐり会い」が描かれた1974年当時の知見に基づくならば子宮・卵巣の両方を摘出したBJ先生の対応は当然だったと言えるでしょう。
ところで、BJ先生はたった一人で子宮頸癌の3~4期に対する広汎子宮全摘および両側付属器摘出術をわずか1時間で行ったことになります。
広汎子宮全摘は婦人科の中でも最高難易度の手術のひとつであり、執刀医・第一助手・第二助手・器械出し・麻酔科医・外回りとスタッフ6人がかりで行ったとしても5~6時間は普通にかかるので、
例えるならば100メートル走を2秒で走るくらいの爆裂スピード手術です。
しかも、麻酔科医すら不在で全部ひとりで手術したということは術中の薬剤や輸液・輸血の追加投与すら必要なかったということなので、
これだけのスピードでありながらほとんど出血をさせることなく手術を終えたことになります。
それも、相当な出血量が予想される3~4期の子宮頸癌です。
普通に考えると絶対ありえない超技術なのですが、BJ先生は「身代わり」にて子宮体癌の腟上部浸潤・膀胱浸潤・腹膜播種ならびに15か所の腹膜癒着に対する根治手術を約30分で終わらせています。
これは100メートル走に例えると、皆が10秒台や9秒台を出すことに命を燃やす中でBJ先生だけ音速で走れるようなものなので、
それに比べれば広汎子宮全摘を1時間で終えるくらいは朝飯前なのかもしれません。
これだけ手術が上手ければ、そりゃ無免許だろうと法外な医療費を取ろうとも世界中で引く手あまたになるってなもんです。
BJ先生の技術が羨ましい…
現役産婦人科医ならどう対応するか
以上を踏まえて、現役産婦人科医の私(やっきー)なら如月めぐみに対しどのような対応をするかを解説していきましょう。
BJ先生ほどの技術があるならともかく、私なら間違いなく放射線治療を選択しますね。
前述した通り、子宮頸癌に対し手術療法が選択されるのは最大でも2期までの症例に限られます。(正確には2B期まで)
3期以降はそもそも手術が推奨されません。
理由としては、子宮頸癌は進行すると周囲の臓器や神経・血管などが複雑に存在する場所へ食い込むように発育するので、
3期以降の子宮頸癌を無理やり摘出しようとすると手術による合併症もメチャクチャひどくなるというのが1つです。
もう1つが、子宮頸癌は放射線治療が比較的効きやすいタイプの癌だからです。(効きにくいタイプの子宮頸癌も存在しますが)
特に「同時化学放射線療法」という放射線治療と抗がん剤を併用する治療法は子宮頸癌に対し高い効果を持ちます。
私が如月めぐみの主治医であれば、この同時化学放射線療法を提案するでしょうね。
また、前述した通り両方の卵巣を摘出するとエストロゲン(女性ホルモン)が枯渇して様々な合併症が起こるリスクが高まりますので、
私なら卵巣を温存できないと判断した場合は「ホルモン補充療法」(女性ホルモンを薬で補う治療)を行います。
もっとも、1974年当時のホルモン補充療法は「更年期障害の治療のため」という位置付けであり、
骨粗鬆症や心血管疾患の予防に有用であるという報告が出てきたのは1980~1990年代頃からです。
(参考:『婦人科悪性腫瘍患者における卵巣摘出による骨量低下に対するホルモン補充療法の有用性に関する検討』安田雅弘,日本骨代謝学会雑誌 10(3): 202-202, 1992.)
「めぐり会い」当時の知見でホルモン補充療法を選択するのは少々難しいかもしれませんね。
最後に、今回のエピソードにおけるBJ先生の最大の突っ込みどころを見ていきましょう。
「安心しろ その女性はもうこの世には存在しない」
「きみの女の部分をすっかり とらなけりゃならないんだ」
「もちろん赤ちゃんも産めなければ女らしさもなくなる」
「きみが女であるあいだにいっておこう」
…うん、爆弾発言ですね。
いくら子宮や卵巣を摘出したからといって「女ではなくなった」「如月めぐみは死んだ」という趣旨の発言はなかなかに問題があります。
患者さんに対し半ば追い打ちをかけるような発言であり、
いくらBJ先生と言えど、流石にこれはひどい対応だと言わざるを得ません。
……とはいえ、これは昭和49年の作品です。
昭和中期といえば医者が病院でタバコを吸いまくり、職場で男の上司が女性の部下のお尻を触ってもさほど問題にならず、飲酒運転が当たり前に横行していた時代であり、今の常識とは大分かけ離れています。
そして「女性にとって一番の幸せは子どもを産むことである」という考え方が根強く残っていた世相でもあるため、
義理と人情を重んじるBJ先生がこのような対応を取ったのも仕方ないことなのかもしれません。
もちろん、若い女性の子宮と卵巣を両方摘出しなければならない場合、患者さんにとって精神的な負担は非常に強いものです。
私であれば、患者さんの悩みをしっかり傾聴し、必要に応じて心療内科等への紹介も行うでしょうね。
まとめ
以上、『ブラック・ジャック』より如月めぐみと子宮癌に関する解説でした。
総じて言えば、BJ先生の手術スキルが尋常ではないことが分かりましたが、
私なら手術をするという選択自体を取りませんし、BJ先生の術後の対応に関しても疑問が残る結果となりました。
しかしながら、そんな突っ込みどころも時代のせいと言えばそれまでですし、BJ先生のかっこよさが失われることは決してないのであります。
私も億が一、今後女性に言い寄られた時にはBJ先生のようにクールに返答しようと思います。
ブロガーは記事を書くだけが商売だ……さようなら。
以下、関連記事です。
「めぐり会い」はのちに『ヤング ブラック・ジャック』にて大胆なリメイクが施されました。
如月めぐみの子宮頸がんの新解釈『ヤング ブラック・ジャック』を解説する
『ブラック・ジャック』幻の未収録作品「快楽の座」に関する解説です。
【閲覧注意】『ブラック・ジャック』幻の未収録作品「快楽の座」を解説する
如月めぐみが罹患した子宮頸癌は、今や高い確率で予防できる癌です。